お電話でのお問合せ・ご予約:090-8842-7341

勝浦観光ガイド

国際武道大学

国際武道大学は昭和59年4月に開校した我が国初の武道専門の4年制大学です。武道精神を建学精神とし、豊かな国際教養を身に付けた武道指導者を養成しようとするものです。と同時に武道文化を通じて国際平和に寄与することを目的としています。 12万 6000平方メートルの広大なキャンパスでは武道学科と体育学科の生徒約2000人が学んでおり、将来は短期大学の設置、学部増設などによる総合大学を目指しています。この大学開校は学園都市として勝浦市のイメージアップが考慮され、教育文化水準の向上と地域経済の活発化など、あらゆる分野に活力を与える地域振興の事業としての役割を担っています。

豊浜海水浴場

市内では一番東に位置する海水浴場です。

近くにサーフィンのスポットがあり一年中サーファーでにぎわっています。

興津海水浴場

上総興津駅より徒歩3分、波のおだやしな家族向きの海水浴場です。

全国で6海岸が事業指定をうけた「興津港海岸エコ・コースト事業」により自然環境に配慮した海岸づくりが行なわれています。

串浜海水浴場

海岸線に沿って国道があり国道の下がすぐ砂浜になっています。

中央海水浴場と同じ湾内にあり波のおだやかな海水浴場です。

鵜原海水浴場

自然に侵食された海岸線は変化に富んだ地形で鵜原理想郷に隣接する海水浴場です。

砂の芸術祭も開かれたことのある広々とした砂浜です。

勝浦中央海水浴場

勝浦駅より徒歩5分に位置し勝浦漁港・魚市場の見える海水浴場です。

守谷海水浴場

白い砂浜と青い海原が特徴の景勝地で湾内には隆起した小島(曠島)が浮かぶ 海水浴場です。
平成4年11月8日には天皇、皇后両陛下をお迎えして「第12回全国豊かな海づくり大会」が行なわれました。

勝浦朝市

勝浦朝市は、朝の日差しとともに、活気とにぎわいを見せはじめます。

採れたての野菜や果物などの山の幸や、その日の朝漁港で水揚げされたばかりの魚介類などの海の幸の新鮮な食材のほか、自家製の漬け物・つきたての餅・赤飯・しおから・なまり節や干物などの加工品などと、竹細工・木工細工・わら細工などの工芸品も店先に並べられています。

守谷海岸 渡島

守谷海岸の沖、およそ150メートルに浮かぶ赤い鳥居が目を引く『渡島(わたしま)』。

年に数回の干潮時には、砂浜と渡島がつながる自然現象をみることができます。

宇宙航空研究開発機構 勝浦宇宙通信所

宇宙航空研究開発機構の施設で、人工衛星の状態や位置を確認し、正常に保つ電波の交信をします。見学コーナーもあります。

海の博物館

海の博物館では房総の海の最新情報を知ることができます。また、磯の観察会も開催されます。

勝浦海中公園

東洋一の規模を誇る海中展望塔があり、海底の様子を見ることができます。

守谷洞窟

守谷湾の西岸のある海蝕洞窟で、入り口の高さ6メートル、幅8メートル、奥行30メートル。一説には、蜂須賀公が落城の途次、ここに隠れ難を逃れたといわれています。

鵜原理想郷

鵜原駅から徒歩約7分。リアス式海岸が続く明神岬一帯。大正初期にここを別荘地とする計画があり、「理想郷」と呼ばれるようになった。静かな入り江の彼方に青い海が広がり、散策するには格好の景勝地です。

勝浦灯台

大正6年2月、海抜70メートルの「ひらめヶ丘」に建設。燈高21メートル、光度14万燭光。丘から見る日の出は圧巻です。

尾名浦

勝浦湾の西岸にあり海蝕と風化によってできた洞。別名めがね岩と呼ばれ、湾内の景観を一層盛り上げています。

繋船柱碑

江戸時代興津は、東北諸藩の廻米交易船の碇泊地として、房総沿岸有数の避難港として、いわゆる興津千軒の繁栄をもたらした要港でした。殊に穀倉を誇る仙台藩はその往来が最も激しく、興津天童山下に陣屋を置き、寄港船の取り締まりや連絡等にあたらせたといわれています。この柱も当時仙台藩によって運ばれたもので石巻近在に産する粘板岩、通称仙台石でできています。
かつて港の弁天崎磯際に十数本も並立し、これに繋留する船舶は一艘につき金1朱と御供米2升、500石以下は200文を妙覚寺に納めたといわれています。

おせんころがし

大沢集落の西方に続く海岸に高さ数十メートルの断崖が太平洋に向かって切れ落ち中腹を旧国道がぬっている。このおせんころがしには悲しい伝説がつたえられています。
昔土地の豪族古仙家におせんという一人の娘がいました。おせんは村人たちを人とも思わぬ強欲非道な父親を改心させようと説得した。し かし、父親の心を改心させることは無理なことを悟り、この断崖から身を投げて、死をもって諫めたと言われています。

妙覚寺・同山門

広栄山と号し文永元年(1264年)奥津城主佐久間兵庫頭重貞の開基と伝えられ、江戸時代日蓮宗本山として末寺を多く有し、御朱印25石であったと伝えられています。この山門は江戸末期の当地方作の代表的建物の一つです。
 大工棟梁の名前は判明しませんが、おそらく伝統ある夷隅大工の流れをくむものであろうと考えられます。三間二面一戸の楼門、天保7年(1836年)に建造にかかり、天保10年(1839年)に完成しました。柱は直径30cm、入母屋造り、桟瓦葺であり、懸魚に孔雀の彫刻があります。

勝浦城址

八幡岬の先端三方海に臨んだ断崖に勝浦城址があります。築城時期については様々な伝承がありますが、城郭の形態をなしたのは、正木時忠からではないかと考えられます。それ以前は真里谷武田氏の出城か砦であったと考えられます。正木時忠がいつ侵攻してきたのかは不明ですがおおよそ天文8年(1539年)から天文10年(1541年)にかけてではないかと考えられています。
正木氏は時忠から時通・頼忠と続きますがが天正18年(1590年)小田原落城により関東が徳川家康の支配下に置かれるとほどなく植村泰忠に接収されることになります。

現在、郭内、木戸脇、内宿、二のくら(廓)、三のくらなどの地名は残っていますが廓跡も八幡岬公園として生まれ変わり、お万の方の銅像が青い太平洋を見つめています。

高照寺の乳公孫樹

高照寺境内の墓地にあるイチョウの奇樹で大きな乳柱が多く発生しているために乳公孫樹といわれています。百年ほど前の勝浦火災のとき、主幹の上部が枯損し樹高は10m余りですが樹冠は大きく広がりホーキ状になっています。大小合わせて100以上の乳房が垂れ下がっているといわれています。高照寺の古文書は大火の折り消失してしまったため樹齢は分かりません。

ただ、昭和初期に著名な植物学者牧野富太郎博士が訪れ、「千年の年輪を数える か」といわしめ、また、わが国において天然記念物の貢献者三好学博士も大正13年に実査し乳柱の多いことを称えています。
本樹にまつわる寺伝では「千余年の昔、一聖僧この地で法華経読誦により里人の乳不足で悩める婦人を治し乳飲み子の成長を容易にしたという。僧の死後里人、徳を偲び墓上にイチョウを一樹植えたところ、成長するにつれ乳柱を生じて乳汁不足の者は来り詣で、これを治すに効能顕著なり」と記されています。
乳公孫樹は県指定天 然記念物になっています。

本行寺釈迦堂

市指定文化財。暦応2年(1339年)日続によって真言宗から日蓮宗に改められたと伝えられています。享保8年(1723年)の五十座に際し、池上本門寺 より日蓮上人の御歯骨が分与され厨子に奉安されています。
日蓮宗寺院の多い千葉県にあっても重層建築の釈迦堂は珍しいといわれています。日蓮上 人の御歯骨を奉安するため建てたところから、舎利塔の意も含んで重層としたのではないかと考えられています。三間堂で重層方形造り桟瓦葺で棟上に擬宝珠を のせています。上層には唐様式も加味され、整った美しい建物となっています。

覚翁寺

勝浦朝市の歴史を示す定書が奉納されていて、勝浦藩主であった植村家の菩提寺。寛永11年(1634年)勝浦城主植村泰勝が死去した時、勝浦城内にあった 浄林寺をここに移し、泰勝の幼名覚翁丸をとって出水山覚翁寺としたという。
境内には植村氏三代泰朝、四代忠朝、五代正朝の墓宝筺印塔(ほうきょ ういんとう)があり、市指定文化財となっています。また、本堂には江戸彫刻の名人といわれている通称・波の伊八(武志伊八郎信由)の欄間が残されています。

遠見岬神社

江戸時代までは富大明神と称し、はじめ八幡岬突端富貴島にあったといわれています。が、慶長6年(1601年)の津波で流され、宮ノ谷に再建、さらに万治2年(1659年)現在の場所に建立されました。
明治4年新政府の社格制度の発令で天富命(あめのとみのみこと)を祭神とし郷社に選定されました。現在の社殿は嘉永2年(1849年)に造営されたものです。

祭礼は毎年9月望の日に祭礼を行っていましたが、明治44年(1911年)より9月13日に改められました。勝浦市街を見下ろすように、うっそうとした樹木が繁茂し森厳な雰囲気漂う古社です。

官軍塚

戊辰の役で旧幕府の海軍副総督榎本武揚は、北海道函館の五稜郭に拠って官軍に抵抗し、維新政府から鎮圧を命ぜられた津軽藩も容易に平定できませんでした。津軽藩は藩主の実兄が熊本藩主であった縁故を頼り、肥後に援助を要請しました。
明治2年正月2日援軍は米国汽船を雇って隊長、寺尾九郎右衛門の指揮す る肥後十二番大隊、重士隊、大砲隊、五番隊、十四番隊など三百五十人が乗船、北海道に向かいました。しかし、3日夜川津沖の岩礁地で漁師仲間が俗に「関東の鬼ヶ島」と呼ぶ難所で、大暴風雨に遭い難破してしまいました。
川津の住民は救助活動にあたりましたが130人の犠牲者を出してしまいました。この遭難者を埋葬、供養したのが官軍塚です。